告 白

- confess -

故なく行われる残虐はない。

--- ソロン・モライオン“心象の俯観”より
「っ! ……」
 テルナの愛らしい唇からほとばしろうとした悲鳴がその途中で勢いを失った。
 一瞬後、彼女は気づいたのである。
 目の前に横たわった巨大な生物が今まさに死に瀕していることに。
 渇砂龍は落下してきた巨岩によって、左後肢をその付け根から引き潰されていた。
 背中の羽が引きちぎられ、頚にも大きな裂傷がぱっくりと口を開いている。
 そこから、おびただしい量の血が溢れ出していた。
 この龍の命が残りわずかであることは明白だった。
「……自業自得だな、ロドース卿」
 テオンが静かに語りかける声を聞いて、テルナは驚愕した。
「テオン。今、何と?」
「お姫さま。ロドース・エンズコーウェルはこの渇砂龍が王宮の人々を騙すために作り出した仮の姿だったのです」
 テオンに代わって、メイエが質問に答えた。
「そんな……」
 突然のことに、テルナはその事実をにわかには信じかねた。
 しかし。
「その通り。わしは“水龍の宝珠”をだまし取るために、長らくオル・ラハートの人々をたばかり続けてきたのだ」
 龍がロドース卿の声で告白するに至り、彼女もそれを受け入れざるを得なかった。
 テルナは尋ねた。
「なぜ、なぜなのです? ロドース卿。渇砂龍は“火の元素”に属する精霊生物であると聞きます。その渇砂龍であるあなたがなに故に“水の元素”の精華であるはずの“水龍の宝珠”を欲したのですか?」
 苦しい息の下から渇砂龍……ロドース卿が己れの事情を説明し始めた。
「世の人々は“龍は永遠の生命を持っている”と言う。精霊生物である龍は長寿の象徴のように言われる。しかし、それは嘘だ。確かに、我ら渇砂龍は四百年から五百年という、ほかの種族から見れば永遠に近い寿命を持ってはいる。しかし、我々も天からのお召しがあれば、確実に死ぬのだ」
 そして、ロドース卿は言った。
「子孫繁栄のために龍も卵を生み、子供を育てる」
「へえ。龍が巣の中で卵を温めるなんて聞いたことがなかったな」
 テオンの言葉に、ロドース卿は巣ではなく、雄龍が卵のための抱卵嚢を持っていることを説明した。
「その証拠にわしも今、ここに卵を抱いている。二百年前に死んだ妻が残してくれたものだ」
 そう言って、ロドース卿はいとおしそうに自らの腹を撫でた。
 と、その表情が暗転する。
「しかし、たとえ一千年の間大切に温めようと、今のままでは卵が孵ることは永遠にないのだ……」
「なぜなの? あなたが奥さんの思い出と一緒に大事に温めてきた卵がなぜ孵らないの?」
 メイエの問いに、ロドース卿は表情を歪めた。
「それはこのマトレイトの大地から恵みが失われたからだ。それが失われてから久しいというのに、我等龍族の血の奥に潜む先祖からの記憶はその“恵みの季節”を忘れることができないのだから」
「……“雨季”か」
 テオンがぽつりと漏らした言葉に、メイエとテルナが弾かれたようにテオンを見た。
 訊く。
「どういうこと?」
 テオンが答えた。
「《大陸》中のどの史書を読んでも必ず書いてあることだ。『かつてマトレイトは緑の大地であった』とね。今は渇き切ったこの砂漠も、遥かな太古には一年のうち半分は陽の光に恵まれて緑が萌え、残りの半分は豊かな雨に育まれて多くの命が生まれた時代があったんだよ」
 渇砂龍は肯くことでテオンの言葉に肯定の意を示した。
「雨季にはすべての生き物たちの活動が活発になる。我が先祖は餌の豊富なその季節を子育ての季節とした。そう、“火の精霊生物”であるはずの渇砂龍は皮肉なことに、豊富な水がなければ子を育てること……ひいては卵を孵すことすらできなくなってしまったのだ!」
「それで、これを……」
 メイエが肌身離さず持っていた革袋を手に取った。
 中身を取り出す。
 その瞬間、周囲に深い海の底のごとく青い光が満ちた。
 メイエの掌で、“水龍の宝珠”が淡く光っていた。
「おお、それだ!」
 決して強い光とは思えないのに、渇砂龍が目を瞬かせてうめいた。
「わしはそれがどうしても欲しかった。水を操る力……わしの卵に命を与えてくれるはずの力が!」
 叫んだ瞬間、龍は激しく喀血した。
 ごぼごぼと血の泡が口の端から垂れる。
 渇砂龍……ロドース卿は内臓まで深く傷ついていたのである。
「どうして……どうして事情を打ち明けてくれなかったのです?」
 テルナが涙声を漏らした。
 メイエから“水龍の宝珠”を受け取りながら、問いかけを重ねる。
「そのような事情があるのなら、どうしてわたくしたちに素直に打ち明けて暮れなかったのです? この宝珠の力を“少しでいいから貸してくれないか”と。そうすれば、わたしたちオル・ラハートの民とて、決して冷血漢の集まりではないのに……」
「それは……“水龍の宝珠”はお前たち人間のものだった。それをわしが求めたとき、わしがそれを自由にすることをお前たちが許すとは思えなかった。……思えば、わしは二百年の焦燥の揚げ句、他人を信じることができなくなっていたのだ」
「愚かです……皆、愚かです。あなたも……、そしてそんなあなたの葛藤を察してあげられなかったわたしたちも……」
 テルナは宝珠をそっと胸に抱き、涙をぽろぽろこぼした。
 テルナの滑らかな頬を伝った滴が宝珠の上に落ちて、飛沫を散らした。
 テルナの掌の中で、宝珠が明滅した。
「……泣かずともよい、テルナ姫」
 渇砂龍が静かな声で言った。
「これが滅びゆく渇砂龍の運命なのだから……」
 渇砂龍の刺と鱗に覆われた顔に浮かんでいたのは笑みだった。
 それは逝く者のみが作ることのできる平穏な微笑みだった。
 彼……ロドース・エンズコーウェル卿であり、渇砂龍である彼の命は今まさに吹き消えようとしていた。
 そのとき。
 きぃぃぃぃぃぃいいいいいいいいいいいいいいん。
 どこからともなく、鈴を鳴らすような耳に心地好い音が聞こえ始めた。
 最初、ささやきのごとく小さかった音がたちまちのうちに周囲に満ちた。
「な、なんだァ?」
「て、テオン、あれを見て!」
 顔を見合わせたテオンとメイエがほとんど同時に気付いた。
 テルナの掌の中で“水龍の宝珠”が強い光を放ち始めていた。
 静かな湖面のように澄んだ宝珠の表面で、テルナの涙の滴が揺れている。
 転瞬、その滴が弾けた。
 周囲に、青い光が爆発的に満ちた。
 そして、不思議な青い光は現われたのと同じように、唐突に消えた。
 突然の光の変化に目の調節機能が追い付かず、周囲の闇が濃くなったように感じられる。
「今のはいったい……」
「次から次へと、今度は何なのよ?」
「しっ! 静かに!」
「……」
 テルナの強い調子に、メイエとテオンは口をつぐんだ。
 一瞬……。
 二瞬……。
 漆黒の闇と、耳が痛くなるような静寂がメイエたちを包み込む。
 あまりの緊張に耐えかねて声を出そうとした瞬間、メイエはそれに気付いた。
 それは……音だった。
 最初、ごくささやかな気配に過ぎなかったそれは時を経るごとに少しずつ大きくなってゆき、やがてその正体を明らかにした。
「これは……」
 口に出してしまうと夢のように消えてしまいそうで、メイエは声をひそめて、そっと言った。
「……水音だわ」
 そして、口にした瞬間、音は確とした音像を取った。
 メイエと、そしてテオンはほとんど同時に音の聞こえてくる方向を振り返った。
 二人の網膜に最初に飛び込んできたのは巨大な顎だった。
 さきほど見た、石壁に作り付けの獅子の浮き彫りである。今にも吠えかかってきそうなその細工の精緻さは見事の一言に尽きる。
 そのとき、二人ははじめて気づいた。そのくわっと開かれた獅子の口の中に、小さな穴が設けられていることに。
 そして、問題の音はその穴の中から響いていた。
 ……こぽこぽこぽこぽ……。
 息を飲んで二人が見つめる中、それは遂に起こった。
 獅子の口から清冽な清水がほとばしったのである。
 それはまさに奇蹟と呼ぶに相応しい荘厳な一瞬だった。
「水よ! 水だわ! ロドース卿、あなたがあれほど欲しがっていた豊富な水が……」
 振り返って言いかけ、メイエはテルナが表情をなくして立ち尽くしていることに気付いた。
「まさか……。せっかく水が……」
 絶句する。
 たちまちのうちに足元に溜まり始めた清水を蹴り散らすようにして、テオンが横たわる渇砂龍へと歩み寄る。
 ひざまずいて暫し様子を調べた後、彼は首を横に振った。
「……死んでいる」
「……そんな……」
 メイエが顔色を失ったとき。
 うず高く積もった瓦礫の隙間から、一条の光が差した。
 目映いその光はメイエの足元の水面を光らせた後、滑るように移動して、息絶えたばかりの渇砂龍の死骸を照らした。
 糸のように細い光が太さを増す。
 雰囲気にそぐわない晴れやかな光に、周囲が満たされる。
 朝日である。
 長かった夜がようやく明けたのだ。
 破壊され、吹き曝しになった“月蝕の塔”最上階に晴れやかな朝の空気が流れた。
 急激に周囲が明るくなった。
 そして、最初にそれに気付いたのはテルナだった。
「……あ……」
 陽にさらされた龍の腹の皮膚が綻びるように緩んでいた。
 ぷちぷちと音を立てて、鱗が弾けてゆく。
 みるみるうちに、骸の腹部に漿膜と毛細血管とでびっしり包まれた抱卵嚢が露わになった。
 内側に、一抱えほどの大きさの黄金色をした卵があるのがわかる。
「テオン! メイエ! あれを……」
「あっ!」
「……」
 テルナ、メイエ、テオンの三人が無言で見守る中、ついに卵を包む漿膜が破れた。
 どろりとした羊水が流れ出し、やがて卵の滑らかな表面が現われた。
 昇ったばかりの日の光を受けて、卵がまさに黄金でできているかのごとく輝いた。
 ひたひたと渇砂龍の死骸を洗い始めていた水面へと落ちる。
 卵の表面が水に触れた瞬間、壮絶な水蒸気が噴き上がった。
 一瞬、何も見えなくなる。
 そして、その時。
 新しい命が新しい光の中で産声を上げていた。
 蒸気が風に吹き散らされ、その姿が露わになった。
 水の中にしっかり自分の足で立ち上がっていたのは小さいながらも、しっかり親と同じ姿形をした龍だった。
「か、かあいい……」
 そのあまりの愛らしさに、メイエが声を漏らした。
 しかし、生まれたばかりのちび龍はそんな周囲の声には気取られず、羽の先にまだくっついている羊膜を取るのに必至になっていた。
 やっと身だしなみを整え終えて、周囲に気を配る余裕が出てくる。
 彼……いや、彼女かも知れないが、とにかくちび龍は自分のすぐ傍に自分と同じ姿をした巨体が横たわっていることに気付いた。
 試しに、つんつんつついてみる。
 反応はなかった。
 彼はすぐにそれ……自分の親の骸……に対する興味を失った。
 自分の身体を明るく照らす光の方向へ歩いてゆく。
 程なく、彼は生まれて初めて太陽の姿を目にした。
 そして、それはひどく彼の興味を引いた。“火の精霊生物”渇砂龍としての種の記憶が彼に何かを囁いているのかも知れなかった。
 今や、彼の目の前にはすべてが未知の世界が広がっていた。
 無限に広がる砂漠の大地。抜けるように晴れ上がった紺碧の空。
 すべてが彼の冒険を待っていた。
 彼は羽を広げた。
 空気に触れたばかりの、まだ濡れている羽が朝日にきらきら光った。
 彼は羽ばたいた。空気と、そして精霊の力が彼の身体を抱え上げた。
「飛んでゆく……。飛んでゆくわ」
 メイエとテオン、そしてテルナの三人は朝日の中に立ち尽くして、生まれたばかりの若い龍が太陽を目指して飛び去ってゆくのをずっと見送った。
 やがて、その姿はマトレイトの雲一つない空へと消えていった。


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