歩 ん で き た 道

- path -

人は信じることを忘れたときに、本当に死ぬ。

--- パーナヴィス・オルドニオン“医を志す者のために”より
 地平まで続く砂の原に、二筋の足跡が続いていた。
 大きな男の足跡と、もう一つはどうやら女のもののようである。
 二つの足跡は無限に広がっているのではないかとさえ思える砂の地表に、延々と残っていた。砂丘の斜面を斜めに横切り、尾根を越え、さらにその先へと伸びている。
 いや、よく観察するならば、その足跡のうち、女のものと思われる方に少し乱れが見られただろう。ふらついているようにも思える。
 足跡を西に辿ってゆくにつれ、その傾向は次第に顕著になっていった。
 ……やがて、その足跡は大きな砂丘の陰になった場所で一時途切れていた。
*
「しかし、おまいってほんとバカだな」
 テオンがあきれたように言った。
「うっさいわね。大バカのあんたに言われる筋合いはないわよ」
 メイエが言い返すが、口調にいつもの勢いがない。
 彼女は青い顔をして、ひんやりした日陰の砂の上に横になっていた。
「ほれ。これ乗っけてろ」
 テオンが水筒の水で濡らした布切れをメイエの額に置いた。
「何これ? きったない端切れねー」
「じゃかあしっ。病人はおとなしくしてろっつーの」
 テオンは唇をとがらせたメイエを押さえつけて、その唇に水筒を押しつけた。
「ったく。こんなとこで逆上せてひっくり返りやがって」
「あたしだって、逆上せたくて逆上せたわけじゃないわよ」
「当たり前だ。自分から望んで日射病になる奴と一緒に、砂漠なんぞ渡れるかい」
 二人が身を置いていたのは日光から遮られた砂丘の陰だった。そして、そこから一歩でも外に足を踏み出せば、その先はすべてが狂っているといってよかった。
 空気が揺らめき、風景が歪んでいる。
 もっとも、満足に風景と呼べるものはそこにはない。熱く灼けた砂と、それに熱せられた空気があるだけである。周囲の情景を説明するには、緩やかな砂丘の連なりと、雲一つない青すぎる空を描写すれば、あとは何も必要ないだろう。
 しかも、そのすべては強烈な日光に曝され、白いハレーションの中に埋没していた。
 ……真昼のマトレイト砂漠。
 そこは文字通りの狂気の世界だった。
*
 喉を潤して一息ついたメイエから水筒を取り返して、テオンは肩をすくめた。
「本気、おまいって筋金入りのガンコ者なのな。つらけりゃ『つらい』って一言白状すりゃあいいもんを、やせ我慢しちまうんだから」
「だって……、あたし、男に助けてもらおうなんて思わないもの」
 メイエの言葉に、テオンは嘆息した。
「やれやれ。またおまいさんの『男なんて』が始まった。ま、地母神ラ・ガイアの巫女神殿は《大陸》随一の“女の園”だってえからなァ。そこの巫女戦士であるおまいさんがろくに男のことを知らずに、毛嫌いする気持ちもわからねえでもねえが……」
「ラ・ガイアさまの巫女“だった”のよ。過去形。それに“ろくに男のことを知らない”わけじゃないわ」
 テオンの台詞の途中を、メイエの不機嫌そうな声が遮った。
「過去形?」
「そーよ。……これを見て」
 豆鉄砲鳩のテオンに、メイエは額の濡れふきんを取って、自分の前髪を上げて見せた。
 ふだんは見えないメイエの額の白い肌が露わになった。
「こ……、こりゃあ……」
 テオンが絶句する。
 彼が言葉を失うのも無理なかった。
 メイエは日頃から目が隠れてしまうほど前髪を長くしていた。髪全体は肩に届く遥か上で切り揃えているにも関わらず、である。
 これは魔法戦士としてはかなり異例と言えた。なぜなら、良好な視界が得られないことは戦場では即、死を意味するのだから。
 それ故、テオンは以前からメイエの髪型に疑問を持っていた。『なぜ彼女の前髪はあんなに長いのだろうか?』と。
 その答えが今、彼の目の前にあった。
 それは醜い火傷の痕跡だった。
 富士額とでも言うのだろうか、メイエの額はどちらかと言うと広めで、理知的な感じがした。その額の真ん中に、まるで焼きゴテでも押し当てたような皮膚のひきつれがあったのである。
 メイエは透けるような肌理の細かい肌の持ち主だった。そのことが逆に、紫色に変わって固く盛り上がった傷跡の醜さをより強調していた。
 メイエがぽつり、と言った。
「……封印よ」
「封印?」
 度肝を抜かれたテオンはメイエの台詞を繰り返すだけである。
「あたしね、これでもラ・ガイア神殿じゃ結構デキた巫女だったのよ。だいたいがとこ、巫女戦士なんて魔法と武術、文武両道に秀でてなきゃなれないでしょ? 両手、両足、そして額の五ヶ所に聖印を授かって、自身の肉体を五茫の魔法陣と成す“五茫授印”を与えられた高位の巫女戦士なんて、神殿の中でも数えられるほどだったわ……」
 メイエは遠くを見る目で、呟くように言った。
「でも、あの頃のあたしはまだ子供だったのね……」
「もう若くないみたいな言い方だな」
 テオンのツッコミに、メイエは自嘲気味の笑みを浮かべた。
「否定はしないわ。あたし、もうあんなバカやれるほど若くないもの」
 それから、彼女はぽそり、と告白した。
「……十五歳の春のことよ。あたしね、悪い男にころりとだまされて、そいつに抱かれたの」
「え?」
 メイエの意外な発言に、テオンは点目になった。
「俺ァてっきりおまいさんは未通女(おぼこ)に違いねえと思ってたんだが」
 テオンの下劣な台詞に、メイエは珍しく笑顔で答えた。少し寂しげではあったが。
「うふふ。あたしの“最初のオトコ”になれなくって、残念だったわね」
「いや、俺ァ別に二番目でも三番目でも構わないんだけどよ」
 テオンの苦笑に同調してから、メイエは自分の告白を再開した。
「そいつは神殿に出入りするハンサムな金物商人でね。『貴女のように美しい女性は今まで出会ったことがありません!』とかなんとか言いながら、何にも知らないあたしを散々おもちゃにしたの。そんで、町に帰って、酒場で言いふらしたわけ。『俺ァカタいことで有名なラ・ガイア神殿の巫女さんと乳繰りあったぜェ』ってね」
「ひでー奴だなァ」
「オトコなんてみんな似たようなものでしょ」
 テオンの嘆息に対して、メイエはシニカルにそう言い切った。
「知っての通り、地母神神殿は“清純な乙女のみによって護られる”ってのが決まりだかんね。“しちゃいけない”って言われてた掟を破っちゃったあたしは聖印を封じられて、神殿を放逐されたってわけ」
 自嘲の笑みを浮かべて、メイエは自分の額を撫でた。
 メイエの額は刺青された法印を消すために、まさに焼きゴテで焼かれたのである。
「なるほど。そんで、おまいさんはオトコ嫌いになっちまったってわけか。やれやれだな」
 メイエの告白を聞き終えたテオンがまた例のへらへら笑いを浮かべた。
「結局おまいさんが知ってるオトコってのはその悪い奴一人だけなんだろう? 世の中にゃ悪い奴と同じ数だけ、いや、悪い奴よりもっとたくさんイイ男が存在するんだぜ」
「そんなの、どこに居んのよ? あたし、神殿を追い出されてからも色んな男を見てきたけど、イイ男なんて見たことないわよ?」
 不満げに漏らすメイエの目の前で、テオンが自分を指さした。
「ほら、ここに居るでしょーが。目の前に」
 メイエは鈍い頭痛を覚えて、指で目と目の間を揉んだ。
「……あなた、じょーだん抜きでその性格は直した方がいいわよ」
 しかし、テオンは彼女の言葉に取り合わなかった。
 信じられないことに、彼は自分の言うことに“本気”になっていた。
「とんでもねえ。直すつもりなんざ毛頭ないね。直すとすりゃ、それはおまいさんの方だ。少なくとも、俺はいつの日か俺の“理想の女”に出逢うときのために、イイ男になろうと心がけてる」
「ケーハクなあんたのどこを押せば、『心がけがいい』なんて台詞が出てくるのよ?」
「そら確かに俺は軽薄かも知れねえよ。でも、俺ァ女の子を口説くときは、たとえその一瞬だけでも、本気でその娘に惚れることにしてんだ。『昔、ちょいと痛い目に遭ったことがある』なんて中途半端な理由で、“人を好きになる”みたいなすてきなことをやめたくないからな」
 テオンの最後の一言に、メイエは横っ面を張り飛ばされたような表情になった。
 顔を真っ赤にして、うめくように言う。
「……あ、あんたなんかに何がわかるっていうの!」
 テオンがしれっとした表情のまま、答えた。
「ああ、よくわかるよ。本人は強がっちゃいるが、メイエ・ラ・アカナバルは一度の失敗だけでビビっちまう《大陸》一のいくじなしだってな」
「あたしを侮辱する気っ?」
 がばっと身体を起こして、メイエがテオンに食ってかかった。
 しかし、その勢いにも関わらず、テオンの浮薄な態度は改まらなかった。
「別に侮辱したわけじゃねえよ」
 そう断ってから、テオンは『こっちこそ理解できない』とでも言いたげな表情を作った。
「しかしおまいさん、ほんとに変だぞ。たかが一回の過ちでそこまで依怙地になるこたーねーだろーが。おまいさんはまだばーさんになって、人生が終わっちまったんじゃねえんだ。失敗したんなら、もっぺん最初からやり直しゃーいいんだよ。そんなに肩肘張ってちゃ、疲れるだけだぜ」
「……もっと自分の心に素直になれって言うの?」
 おずおずと尋ねるメイエに、テオンは肯いた。
「ああ、そうだ。好きな奴のことは好き、自分のしたいことをする。“人生の楽しみ方”なんて爺臭いこたァ言いたかねえが、すべてはそれから始まるもんだろ?」
「好きな人のことは好き、自分のしたいことをする……か」
 メイエは独り言のように、テオンの台詞を口の中で繰り返した。
 テオンは黙考に陥ったメイエを無言で見守っていた。
 しばらくして、彼は言った。
「さあ、もう十分休んだろ? もう日もあんなに高くなってきちまった。ここも陰でなくなってきたし、そろそろ出発しようぜ。悪人どもが俺たちに退治されるのを待ってんだからよ」
「ちょっと待って。最後に、一つだけ訊いていい?」
 腰をあげようとしたテオンはメイエのこの一言に動きを停めた。
「うん? なんだ?」
 怪訝げなテオンの表情を下から見上げるようにして、メイエが尋ねた。
「さっきあなた、『俺は女を口説くとき、相手の女にその一瞬だけでも本気で惚れるようにしてる』って言ったわよね? それじゃ、“あたし”を口説いたときも、本気で惚れたの?」
「は?」
 予想外に真摯なメイエの視線に気圧されて、テオンは一瞬惚けた表情を作った。
 しかし、すぐに彼はいつもの不敵なへらへら笑いを取り戻していた。
「さて。“一瞬だけ”なら誰だって好きになれるだろうな。でも、“その一瞬”が継続するかどうかはその女の子が本当にすてきかどうかに依ると思うぜ。参考になったかな?」
「それはもう」
 立ち上がったとき、メイエの表情にはさっきまでの暗い影など毫ほどもなかった。


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