闇 術 師

- Evil Master -

闇よりいでし闇より昏き者どもよ。人はそを闇術師と呼べり。

--- ジヴ・ナカマゾーロフ“闇の眷属たち”より
 最初、それは単なる“影”であるかのように見えた。通りの軒先にぶら下げられた油灯が放つ青っぽい光が石畳の地面に投じた影だ。
 だが、その正体は影などではなかった。
 通りに足を止めた野次馬の足元に広がっていた“それ”は明かりが射してくる方向に向かってするすると伸びたのである。あまつさえ、地面から空中へと立ち上がってくる。
 厚さのない二次元的な存在であったそれはたちまちのうちに具体的な血肉を備えた存在へと変化した。
 全身を覆う闇色の毛皮。赤く光る瞳。大きく裂けた口からのぞく鋭利な牙。
 ケリス・マクオインの記した“大陸博物誌”の分類に従えば、それは“人狼(ワーウルフ)”と呼ばれる闇獣であった。
 野次馬の群衆のただなかに突如現れた人狼は獣臭い息とともに一声鋭く吠えた。メイエとテオンの対決を避けて下がっていたテルナに襲いかかる。
 そのとき、テルナ姫の喉からほとばしった叫びが前出の言葉であった。
 このとき、《黄金のカウメル》通りには物好きな野次馬でちょっとした人垣ができていた。その直中でこの悲鳴である。通りはまさにパニックのド真ん中に放り込まれた格好になった。
 その瞬間、メイエは振り返って状況を確認することしかできなかった。
 彼女はテオンに向かって呪矢(メルセノニオン・アロー)をキャストするべく施呪している最中だったのである。結印の途中で呪文を中断すると、施呪者に魔法のバックブラストがあるのだ。
 代わって動いたのはテオンだった。
「どけっ!」
 叫ぶのと同時に、彼の左脚が閃いた。
 いったん召喚励起しかけた魔法力を鎮撫しながら、メイエは言われた通りつい、と横に動いた。
 転瞬、なにか小さな塊が風を切りながら、彼女の耳もとを通り過ぎた。
 そして……。
 どしっ!
「ぎゃんっ!」
 鈍い打撃音とともに、テルナへ今一歩と迫った人狼の頭が大きく反り返った。
 そのまま、身体ごと近くにあった家の壁にたたきつけられる。
 日干し煉瓦のくすんだ色の壁に、鮮やかな鮮血の朱がしぶいた。
 人狼は顔の左半分をぐしゃぐしゃに破壊されていた。
 その凶器となった品物はやはり鮮血にまみれて、人狼の足元に転がっていた。
 陶製の瓶のかけらだ。酔漢が辺り構わず投げ捨ててゆく、繁華街では珍しくないごみである。
 テオンは一瞬の判断で、それを自分の左脚の甲に乗せ、人狼の顔面へと蹴り込んだのである。
「ぐるわ〜っ」
 思わぬ伏兵に痛手を被った人狼は残った右目を怒りにぎらぎら光らせながら、テオンをにらみつけた。
 しかし、その文字どおり殺人的な視線をまともに受けていながら、テオンはいまだその表情からへらへらした笑いをぬぐい去っていなかった。
 彼は言った。
「この犬ころ野郎。そのお嬢さんに声をかけたのは俺の方が先だぞ。ちったあ遠慮しろ」
「……あなた、いったい何考えて生きてんのよ?」
 テオンの機敏な動きにちょっと感動したメイエはしかし、テオンのその言葉に頭を抱えた。
「何考えてって、そら決まってんじゃねーか。世界中の美(い)い女とお近づきになるにはどーしたらよいのだろうかっつー遠大な深謀だよ」
 本気とも冗談ともとれる世迷言を口にしながら、テオンは人狼とのにらみ合いを続けていた。同時に、腰の後ろに差した短剣をまさぐる。
 テオンの右手が短剣のつかを探り当てた瞬間、人狼が再度跳躍した。
 今度はテオンに向かって、だ。
 彼を倒さない限り、当初の目的であったテルナ強奪は成し得ないと判断したのだ。
 だが、襲われた側のテオンも黙って殺られてやるつもりもなければ、義務もなかった。
 白銀の刃を鞘から抜き出しながら、彼は逆に前に出た。守りにまわって迎え討つのではなく、自分から積極的に攻撃に出たのである。
 ひゅんっ!
 ちょっとした鎧くらいなら紙のように切り裂いてしまいそうな鋭利な爪が迫った。
 が。
「よっ」
 テオンは文字どおり間一髪の間合いでその一撃を避けた。正確には、風圧に前髪が何本か宙に舞うほどにきわどいタイミングだった。
 しかし、そのおかげで彼は逆に人狼の懐深くにまで入り込んでいた。
「なろっ」
 必殺の一撃を繰り出す。
 ひゅんっ!
 タイミングはばっちりだった。
 が、それでも、刃渡り一リック(約二十一センチ)ほどの白刃は虚しく空をないだだけだった。
 さっきとは逆に、人狼は跳躍することによってテオンの刃を避けたのである。
 空中で、人狼の強靭な後肢が閃いた。
 その先端に光る爪がたたらを踏んだテオンの右上腕部をざっくりえぐった。
 闇の中に、鮮やかな血潮がしぶく。
「いてーじゃねーかっ!」
 驚いたことに、テオンはぱっくりと開いた傷口をかばうことなく、その場にすとん、と腰を落としていた。上半身を大きくひねる。
 一瞬遅れて、地面から空中の人狼へ向かって脚が伸びた。
 わずかに捻りが入れられたテオンのかかとが伸び切った人狼の胴体中央、ちょうど肋骨のすぐ下にある腎臓のあたりを確実にヒットした。
「ぎゃんっ!」
 体勢を崩した人狼は着地に失敗し、石畳の地面にべちゃりと叩きつけられた。
 それでも、機敏に立ち上がる。
 一方、テオンは……。
 彼は立ち上がることができなかった。右腕に受けた傷が、当初彼が考えていたよりはるかに深手だったのである。
 無理な蹴りの体勢から体を入れ換えようとした彼は無意識のうちに傷ついた右腕を地面についてしまい、そこから走った激痛のために身体がすくんでしまったのだった。
 相手の姿勢の不自然さを確認して、人狼が口の端をにやり、と曲げたように見えた。
 そのとき。
「あんたのお相手はあのバカだけじゃないのよっ!」
 鋭い叫びとともに、横あいから激しい剣風が人狼へと迫った。
 メイエである。
 テオンに気どられていた人狼はこの一撃を避けることができなかった。
 いや、たとえ多少避ける余裕があったとしても、人狼はその太刀筋から逃げきることは不可能だっただろう。それほどメイエの剣は鋭利な気合いに操られていた。
 魔法の力を付与され、微光を発した刃が人狼の耳の後ろ、大動脈や神経の集中した急所を真一文字に切り裂いた。
「きしゃーっ!」
 転瞬。
 ぱしッ!
 驚いたことに、闇色の人狼の身体はまるで紙でできていたかのように、細片になって周囲に飛び散っていた。凶悪なその姿は現れたときと同じような唐突さで消滅したのだ。
 そして……。
「おほほほ……。よくも、わたしの可愛いワーウルフを手にかけてくれたわね」
 人を嘲るような、甲高い女の笑い声が《黄金のカウメル》通りに響き渡った。
「な……。どこだ?」
 腕をかばいながら立ち上がったテオンと、エンチャンテッド・ブレードを構え直したメイエは声の主を探して、周囲に視線を巡らせた。
「どこを探しているのだ? 愚かなブタ風情が」
 今度は澄んだアルトだ。
 二人はほぼ同時に、探していた存在を見つけ出した。
 油灯の明かりでほんのりと明るい通りの上方、星明かりだけが唯一の光源である屋根の上に、二つの影があった。
「だ、誰だっ?」
 テオンの誰何に対する答えは冷笑だった。
「ブタに名乗る名はないな」
「おほほ。その通りね」
 他人を見下した相手の言いざまがテオンの矜恃を逆なでにした。
「人のことをブタブタゆーんじゃねえっ。そこの気の強いねーちゃんはともかく、俺にゃブタの親戚なんぞ居ねーよ」
「あたしにだって居ないわよっ」
 テオンの言葉に、メイエが噛みついた。今にもエンチャンテッド・ブレードでテオンに切りかかってきそうな勢いだ。
 テオンは焦った。
「い、いや。今の言葉に他意はねーよ。その場の勢いって奴で……」
「勢いもクソもないわっ。今すぐこの場で訂正してちょうだいっ。うら若き乙女を捕まえてブタ扱いなんて、失礼千万なんだから!」
 口論を始めてしまったテオンとメイエを、屋根の上の二人は冷たく見おろした。
「せっかくびしっ! と決めて登場したと言うのに、貴様らは我々を無視するつもりなのか?」
 氷のごとく冷たい一言に、今にもつかみ合いを始めそーだったテオンたちはよーやく自分たちの置かれた状況を思い出した。
 屋根の上の二人を見上げて、言う。
「だいたいてめえらが『ブタに名乗る名前はない』なーんて言い出したのが良くなかったんじゃねーか」
「そーよそーよ」
 テオンたちの罵詈雑言に、闇の中の片方、美しい銀髪を蓄えた若い男と思われる影が身体を震わせるのがわかった。
「……そんな風に人を愚弄して愉しむ癖は直した方がいいぞ、ヴェスラ・テスラニオン」
 突如本名を呼ばれ、テオンの表情に不審の色が走った。
「……てめえ、誰だ?」
「貴様は覚えておらぬだろうな……。アラム・ゼルベガーの名を」
 男の影がつい……と動き、下から漏れてくる光がその面を照らした。
 銀髪に縁どられた白皙の顔は若い娘でなくともはっとするほど美しかった。
 しかし、何ということだろう。
 その右目は醜く潰れていた。めくれ上がった瞼の下からのぞく白濁した眼球には、視力などないに違いない。
 男はその、美しくかつ醜い顔を歪めて微笑んでいた。
 しかし、男の冷たい微笑みはテオンの心の表面に何の波紋も生み出し得なかったようだ。彼は言った。
「たりめーだ。傭兵なんてやくざな商売は人の恨みを買って歩くよーなもんだからな。俺を殺したい奴の名前をいちいち覚えてたら、元々容量の小さな脳みそがパンクしちまわあ」
 テオンの挑戦的な言葉に、男……アラムの頬がひくひくと引きつった。
「なるほど。この生意気な坊やがあんたの言ってたブタ野郎なのかい」
 テオンの姿を確認するようにもう一つの影が動き、光にその姿をさらした。
「おおっ☆」
 その瞬間、テオンの目尻がだらしなく垂れ下がった。
 何しろそこに立っていたもう一人の影と言うのは肌も露わな美女だったのである。妖艶な、いっそ妖気とすら呼んでも構わないものを身にまとって、冷たく微笑んでいる。
 彼女は血のように紅い唇から官能的な低い声で、しかしそれとは不釣り合いな内容の言葉を口にした。
「まあいい。今宵は軽く様子見ってところだからね。でも、覚えておくがいい。お前たち二人がこのわたし、ロオナ・ハシファイの可愛い人狼を手にかけたのは代償が高くつくってことをね」
「だから、俺は物覚えがよくないって言ってんだろーがよ」
「そのバカを自慢するのはおよしなさいってば」
 胸を張って言うテオンにメイエがささやく。
 が、テオンはけろりとしたものだった。
「いや。俺は決して無制限に物覚えが悪いってわけでもないぞ。たとえば、可愛い女の子の名前は一度聞いたら決して忘れないんだ」
「そんなことも自慢にはなんないわよっ」
 テオンたちはやはり女……ロオナの言葉も聞いていなかった。
 そして、そのことは高慢そうなロオナの矜恃をいたく傷つけたのだった。
「ブタ風情が我ら深淵なる闇術を修めた闇術師を無視しようなど、無礼千万。お前たちには記憶を保持するするに足る満足な知能もないだろうが、まあよい。すぐにその身を持って己が愚かさを償うことになるのだから。せいぜい今のうちに己れの愚かさを謳歌しているがいい」
 捨てせりふを吐くと、ロオナは右手にしていた杖を高く掲げた。
 その杖の先端にはめ込まれたどくろが淡く光を発する。
 ほぼ同時に、ロオナとアラムの肉体は星の淡く青い光に溶けるようにその場から姿を消していた。
「なんなんだ? あの連中は?」
 闇術師二人組が消えてゆくのを漫然と見送りながら、テオンが尋ねた。
「さあ、よく知らないわ。あなたこそ、あの男の方と知り合いだったんでしょう?」
 対するメイエの答えもひどく曖昧なものだった。
 ただ一人、人狼の顎から逃れられたテルナだけがようやく当初のショック状態から抜け出し、泣き声を上げ始めていた。


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